2012年12月13日木曜日

【ふくふく11・12月のご報告】

12月のふくふく11、ニットカフェは、予想以上の盛り上がりとなりました。

手を動かしながら、メンバーがもってきてくれたYarn Bombing (Yarn Stormingとも。 街のいろいろなものを、ニットで包んでしまうすごくおもしろいアクションです!私たちも編んだものを街に放ちに行きたいね〜と盛り上がりました)の資料や、チリの女性たちがつくったキルト、その写真集(軍事政権のもとで消えてしまった家族や、自分が受けた拷問などが描かれた作品もあります)を見ながら、楽しいことや悲しいことをいろいろとおしゃべりしました。
日本でレイシズムをきちんと問うてみたいという、新しい課題になりそうなことも。
編み物初心者のおふたりはアクリルたわしをつくりました。ニードルフェルトをちくちくしたり、グァテマラなどの民芸品として知られる心配引き受け人形もつくりました。虫食いのニットをかわいく補修したひとも。私は勉強机の椅子が冷たいのでそこに敷くものを編みはじめましたが、まだコースターくらいの大きさです…寒いうちに編み終わって使いたいものです。

2012年12月8日土曜日

ふくふく11・12月のお知らせ

2012年も終わろうとしています。
暦のくぎりはできごととはなんのかかわりもありませんが、震災があり、原発事故があってから、日付は以前よりも、重みをもったような気がします。
原発事故後の社会のあり方をさまざまな角度から考えるために毎月11日にひらく勉強会ふくふく11は、2012年5月に第一回をおこない、なんとか毎月つづけて、今年の終わりを迎えることができました。
12月のふくふく11は、いつもとは少しちがう感じで、ニットカフェをひらきます。
編み物や縫い物など、手作業をしながら、世界のニット・アクティヴィズムの映像や資料を見たり、お茶やお菓子を片手にこの1年のことをおしゃべりしたりしたいと思います。
手ぶらでいらしても楽しめるように、少し材料などもご用意しておきますし、手仕事は好きじゃないのでお茶とおしゃべりだけ、という方も大歓迎です。
気軽にご参加ください。お待ちしております!

日時:12月11日18時〜
場所:日本キリスト教会館4階会議室*新宿区西早稲田2−3−18(最寄り駅:地下鉄早稲田駅)
・やりかけの編み物やボタンのとれた上着などのある方は、それをもってきて作業してください。
・かぎ針や毛糸のある方はおもちください。
・お茶やお菓子の差し入れの歓迎です(お湯はございます)。

お問い合わせはfukufuku311@gmail.comまで、お気軽にどうぞ。

2012年10月18日木曜日

「恐怖」の正体に分け入る―『世界は恐怖する』上映とトークのお知らせ


ふくふくでは反原発の言説と「障害」差別の問題について、勉強を重ねてきました。
このたび、よりはばひろくこの問題についてお話しできる機会として下記の企画を開催いたします。
ぜひご参加ください。みなさまとお目にかかってお話できれば幸いです。

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「恐怖」の正体に分け入る――『世界は恐怖する』(1957)上映とトーク

1957年、映画監督の亀井文夫は科学ドキュメンタリー映画『世界は恐怖する』を制作します。核実験が繰り返され、3年前に起こった第五福竜丸事件の記憶が生々しく残る時代に製作されたこの映画は、当時最先端の実験の場にカメラを持ち込み、放射能が生命に与える脅威を、仮借なくとらえています。
一方、映画の中には、広島・長崎の原爆投下後に誕生した「異常児」が登場します。「放射能の影響で障害児が生まれる。だから原子力は怖い、反対する」という言説は、核・原子力に反対する昨年の福島第一原子力発電所の人災以降も、しばしば耳にするものです。

しかし、障害すなわち不幸を運命付けるものでしょうか。生命の価値付けは、放射能に限定される問題ではなく、新型出生前診断の開発が報じられる昨今に連なる問題です。
反原子力か推進か、多様な生命の祝福か抑制か、二者択一を迫る議論から一歩踏み出し、わたしたちを「恐怖」に導くものが何であるか、この映画を今あらためて見ることを通して、探っていきましょう。上映後は、核と戦後史、障害、出生にまつわる課題に長らく取り組んできた、おふたりのトークゲストとともに、さまざまな角度からこの問題に迫り、ご一緒に考えていきたいと思います。みなさんのご来場をお待ちしています。

トークゲスト(五十音順・敬称略)
 安田和也(第五福竜丸展示館学芸員)
 米津知子(SOSHIREN女(わたし)のからだから/DPI女性障害者ネットワーク)
司会
 真下弥生(ルーテル学院大学・東京神学大学非常勤講師/ふくふく)

上映作品
『世界は恐怖する』
(1957年、日本ドキュメントフィルム/三映社、79分、モノクロ)

監督・亀井文夫(1908-1987)
福島県相馬郡原ノ町(現・南相馬市)に生まれる。文化学院在学中、ソヴィエト連邦に留学して映画を学び、帰国後、PLC(後の東宝映画)に入社。
1935年より監督として映画製作を開始。戦時中は治安維持法による逮捕・投獄を経験する。
戦後は独立プロダクションを興して映画作りを継続し、社会の不正義に目を向けた数多くのドキュメンタリーを製作した。
『生きていてよかった』(1954)、『鳩ははばたく』(1958)等、原水爆に関する作品も多い。

日時 2012年11月9日(金) 18時~21時
会場 東京外国語大学多磨キャンパス 研究講義棟1階115教室 
 西武多摩川線「多磨」駅下車 徒歩5分
交通案内:http://www.tufs.ac.jp/access/
キャンパスマップ:http://www.tufs.ac.jp/abouttufs/campusmap.html

*最寄りの多磨駅から会場の建物の間の経路には、路肩くらいの高さの段差が4-5箇所ありますが、階段はありません。(階段のある地下通路を通る経路もあります。)詳しい経路は、下記の連絡先までお問い合わせください。 また、会場の建物にはエレベーター・車いす用のトイレがあります。
*視覚・聴覚障害等のある方で、情報保障の必要な方は、下記の連絡先までお問い合わせください。

お問い合わせ ふくふく fukufuku311@gmail.com
主催 ふくふく http://fukufuku311.blogspot.jp/
協力 東京外国語大学海外事情研究所 
*この企画は東京外国語大学2012年度学部競争的経費によって運営されます。

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2012年8月26日日曜日

【ふくふく11・9月のお知らせ】


【ふくふく11・9月のお知らせ】
原発事故後の社会を模索して、毎月11日に開いている勉強会、ふくふく11・9月のお知らせです。
9月11日というと11年前のことを思い起こされる方も多いのではないかと思いますが、1973年、世界で初めて合法的な選挙で選出されたチリの社会主義政権が、軍事クーデタによって覆された日でもあります。
ラテンアメリカのひとびとは、アメリカ合衆国を軸とする軍事力と新自由主義による一極支配に、何度倒されても立ち上がってきました。その粘り強く抵抗しつづける姿で、現代世界のありように疑義をもつ私たちに多くのことを教えてくれます。
9月のふくふくでは、仲間のひとりでもある伊香祝子さん(ラテンアメリカ民衆文化論)に、「チリ・クーデタとビクトル・ハラ」というテーマで話していただきます。
ビクトル・ハラは、東京の反原発デモではおなじみの「平和に生きる権利」の作者で、このクーデタで軍によって殺害されました。
現在世界で盛り上がっている社会運動のイマジネーションの源泉のひとつがラテンアメリカの民衆運動にあることはしばしば指摘されています。日本と世界のひとびとの声の現在と歴史を考えるまたとない機会になると思います。
どうぞお気軽にお越しください。

「チリ・クーデタとビクトル・ハラ」
講師:伊香祝子(ラテンアメリカ民衆文化論)
日時:9月11日(火)18時~
場所:日本基督教会館4階小会議室(最寄:東西線早稲田駅)
参考文献:
『禁じられた歌 ビクトル・ハラはなぜ殺されたか』八木啓代、晶文社
『ビクトル・ハラ 終わりなき歌』ジョーン・ハラ著、矢沢寛訳 新日本出版社
『エル・フォルクローレ』浜田滋郎、晶文社
(お読みにならなくても参加できます。もちろん。)
Youtubeでも、Victor Jaraで検索してみてください。

2012年7月23日月曜日

ふくふく11・7月(第3回)報告:だれのための「よりよい」生命か

2012年7月11日の「ふくふく11」は『部落解放』2012年1月号の特集「よりよい『生命』とは何か」の3本の論考をテキストに、放射性物質の危険性を障がいと結びつけて語ることについて考えました。
チェルノブイリ事故後に撮影された障がい児や障がいのある動物、奇形の植物などの写真が、ただ放射能への恐怖をあおるために、Facebook上などで広められています。本当に放射能に因るものなのか検証されているわけではなく、“情報として共有する”という善意をまとっていたり、その行為が障がい者を反原発の道具にしていると自覚していたとしても、いまの状況下ではいたしかたなしとして断行されていたりします。これを障がい者差別と断じることは簡単ですが、いまに始まった差別意識ではないからこそ、福島原発事故後に大量に表出しているのでしょう。
野崎泰伸氏は「『障害者が生まれるから』原発はいけないのか」で、いまの社会が「障がいは悪い」という前提に立ち、本来なら障がいのない五体満足の子どもが生まれるべきなのに、原発がそれを阻んでいると考えていることに警戒心を抱いています。野崎氏は、原発の加害者が果たすべき責任は賠償という「法的責任」だけで完遂されるものではなく、原発のために害を被る人がいたとしてもしかたがないとか、自分たちの欲望のためには他者を思い通りにしてもいいとかいう横柄な「原初的責任」こそ追求されるべきだと考えています。
野崎氏も言及した障がいを悪とする環境を象徴するのが、出生前診断です。超音波検査の精度向上により、胎児が“異常”と診断された後に人工妊娠中絶に至ったケースは、1999年までの10年間に比べて、2009年までの10年間には倍増しました。松永真純氏は「出生前診断に向き合うために」で、健常者が自らの健常のあり方を問うことを求めます。さらに八木晃介氏は「どこまでが〈健康〉なのか」のなかで、異常と正常、病気・障がいと健常の境界は恣意的に決められるものであること、「健康増進法」(2003年施行)以降、日本社会では健康維持は義務となり、不健康は生活習慣だけに起因するもので、環境や労働条件は健康を害する要因から除外されてしまった、と説明します。
無自覚のうちに国や原因企業に対して責任を問いにくい状況が固められてしまっているなかで、また障がい児の出生や養育に関わることがはなはだ不平等に女性にばかり“負担”としてのしかかっている現状において、放射能の恐怖をいかに伝え、共有し、また現実に苦しんでいる人たちとどう向き合うことができるのか、次回以降もこれを課題の一つとして据えていきたいと思います。

2012年6月25日月曜日

目的の正しさは手段の正しさではない――反原発運動と障害者差別について

以下の文章は、ある小さな情報誌のために、少し前に書いたものです。原発反対運動がときにはらむ「障害」や「病」への忌避感、それを無頓着に表明して反原発を主張することの問題については、この文章を書くずっと以前からふくふくの仲間たちや友人たちと語り合ってきました。
これは私個人の署名で書いていますが、多くの友人たちとの議論から生まれた共同作業の成果であることは申し上げておきたいと思います。その共同作業はいまも続いています。友人たち、読んでくださる方々、みなさんとの共同作業です。


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目的の正しさは手段の正しさではない
小田原琳(大学非常勤講師)

 原発に反対するデモで、チェルノブイリの悲しげな子どもたちの写真をもった参加者を見かけたことはないだろうか。TwitterFacebook、ブログなどのSNSでも、写真がシェアされているのを見たことはないだろうか。これらの写真の子どもたちは、さまざまな障害をもっていて、悲しげにいたいけに、こちらを見ている。子どもではなく、足が何本も生えた子牛や、茎がねじれ、実がいくつも生った植物であることもある。これらの写真には、ほとんどの場合、なんの言葉も添えられていない。そうして、ウェブ上であればそれに、悲しい、かわいそうだ…福島の子どもたちが、というコメントをつける人たちがいる。私はこうした写真を見るたびに、それに寄せられる同情的なコメントを見るたびに、言いようのない怒りに駆られる。
 個人が発信するものだけではない。週刊誌AERAは昨年8月に、「ふつうの子供産めますか」と題する記事を掲載した。福島県の子どもが書いた手紙の一節からそのタイトルは取られていた。今年1月に横浜で「脱原発世界会議」が開催された直後、さまざまな分科会の様子が数多く動画サイトにアップされたが、そのなかには、福島から避難してきた子どもが「将来結婚はしない、ちゃんとした子どもが生めるかどうかわからないから」と発言し、それを聴いた周りの大人が「言いにくいことを言ってくれてありがとう」「そんなこと言わないで結婚してください。女の人を好きになるってすてきなことだよ」と涙を流しながら答えるという、おぞましいという以外に表現のしようのない光景を写したものがあった。いったいこの大人たちは、それで原発政策に対して何か批判したつもりになっているのだろうか。もしもそう考えているとすれば、同時に自分が何をメッセージとして子どもたちに刷り込んでいるか、わかっているのだろうか。障害をもった子どもが生まれることは、何の議論を経る必要もなくただそれだけで世間に訴える力をもつほど不幸なことで、奇形に生まれた生命を正しい目的のためならばさらし者にすることが許されるとでもいうのだろうか?
 さらに衝撃的なことは、このような問いがチェルノブイリ事故後に大きく広がった反原発運動に対してもすでに提起されていたということである。自身障害者である堤愛子氏はこのように書いていた。
「不幸な子を生むな」だって?生まれることが不幸なんじゃない。“不幸”は、世の中のしくみと人々の意識が創り出したのだ。(堤愛子「「あたり前」はあたり前か?」1989*

 私たちは25年のあいだ、世の中のしくみも人々の意識も変えることなくこの優生思想を放置して、障害をもって生まれた人たちを傷つけつづけ、今新たに、憂いに満ちた顔つきで、それを繰り返そうとしている。
 脱原発阻止を目論む人々は近頃、節電・停電によって病院や施設、高齢者宅などで健康を害する危険が生じる可能性があるといって世間を脅している。言うまでもなく、そのような問題は原発が稼動していた頃にも起こっていた。電気は弱者のためにつくられているのではない。ふりかえることもしてこなかった存在すら持ちだして再稼動を推進する姿は醜悪である。しかし、放射能の影響と想定される障害をもって生まれた生命に彼ら自身の存分な生を生きさせ、語らせることもせずに、ただ人間の罪悪の証明としてその姿をさらさせることも、その行為の愚かしさにおいて大差はない。どちらもただ弱者を口実にして、弱者が弱者たる社会的理由を解消する最大限の努力をしてこなかったことを棚上げにして、目的のためのたんなる道具として利用しているだけだ。
 私は心の底から原発政策に怒りを抱き、すでに多くの人が傷ついてしまったけれども可能なかぎり早く、災厄の原因をとりのぞきたいと願い、できることをしているつもりだ。だが己の正しさを証明するという欲望のために既存の構造のなかで抑圧されている存在を放置し、利用するのであれば、何ひとつ変えることはできないし、むしろ変えるべきものを生き延びさせることにしかならない。そのことに気づかない人を、私は同じ志を抱く者と考えることはできない。
*堤愛子氏による「ミュータントの危惧」他「反原発三部作」はすべてネット上で読むことができる。




2012年5月27日日曜日

ふくふく11・5月(第1回)報告:震災と女性障がい者のとりくみ


「パネルと写真展 第五福竜丸-福島」の開催のために集まったグループふくふくでは、ことし、「ふくふく11」と題して、毎月11日に集まって、そのときどきに参加者の気になっている問題について学び合う会をもつ試みをおこなっています。
 数回の話し合いのなかで、震災と原発事故を機に浮かび上がってきた「生きにくさ」-とりわけ女性や障害者の抱える-を考えていこうという方向が見えてきました。第1回「ふくふく11」は5月11日(金)に、堤愛子さんの「反原発三部作」(
http://dpiwomen.blogspot.jp/2011/04/blog-post_24.htmlにリンクがあります)をテキストに議論をしました。堤さんのこのテキストは、チェルノブイリ原発事故後に盛り上がった反原発運動のなかに見られる「障害」や「奇形」への忌避感=差別を指摘し、障害者の生きにくさは障害そのものにあるのではなく、それを社会がどのように扱うか、そこにあるのだと告発した文章です。
 議論のなかで参加者のひとりがDPI女性障害者ネットワークを紹介してくれ、もうひとりの参加者が、このネットワークが発行するリーフレット「あなたの避難所にこんな方がいたら」について、会での議論を踏まえてまとめたものをご紹介します。

 最後に院内集会:「障害のある女性の生活の困難・複合差別実態調査」報告会(613日(水))のご案内もあります。


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震災と女性障がい者のとりくみ





先月(20124月)14日に、福井県庁を訪れた枝野経済産業相が大飯原発の再稼働をめぐって関電管内の電力不足が「社会的弱者にしわ寄せを与え、日本産業の屋台骨を揺るがす可能性が高い」と危機感を表明“したというニュース(http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/politics/34157.html)を見て、そういえば電力の必要な介護機器をふだん利用されている障がいのある人たちは、どのように震災をくぐりぬけてこられたのだろう、と思ったときに知人から教えていただいたのが、DPI女性障害者ネットワークhttp://dpiwomen.blogspot.jp/

のサイトでした。 こちらのサイトからは、2011425日に発行された「あなたの避難所にこんな方がいたら」というリーフレットをダウンロードすることができます。このリーフレットには、(1)障害のある人に共通して望まれる支援、(2)障がい別に必要な支援者、支援器具等、(3)障がいごとに必要な具体的な配慮や注意:対策肢体不自由、視覚障害、聴覚・言語障害、知的障害、精神障害、難病・慢性疾患の場合などが書かれており、節電や計画停電が必要になった場合にも応用のきく内容だと思いました。

 そのリーフレットなのですが、一番目につくところに、こんなことが書いてありました。



・障害のある女性は、ふだんから情報が届きにくく、声をあげることがさらに難しい、ニーズを出しにくい立場におかれています。

・介助や補助が必要な人や呼吸器をつけている人などのなかでも、特に女性は、生きる優先順位を自分でも低めがちです。平時の社会でも、人工呼吸器の装着が必要になった場合、女性のほうが男性より、呼吸器をつけて生きることを選ぶ人の割合が低いというデータがあります。

・女性の身の周りの介助、とくに着替え、トイレ・入浴は、女性による支援を徹底してください。



 このような注意がなぜ必要なのか、最初はぴんと来なかったのですが、上記ブログの団体DPI女性障害者ネットワークが20123月に発行した「障害のある女性の生活の困難―人生の中で出会う複合的な生きにくさとはー複合差別実態調査 報告書」を読んで、ひとことひとことが重く胸に響いてきました。

 報告書は、昨年5月から9月にわたって行われた「障害のある女性の生きにくさ」についての調査と、制度・政策調査の二部に分かれています。(巻末に、避難所などでの対応を書いたリーフレットの原稿、ブックリスト、障害女性が登場するビデオ・DVDのリスト、調査協力依頼文・調査票付)

個別の「生きにくさ調査」は、回答票と聞き取りで87人を対象に行われ、得られた回答をすべて要約し、問題別に15の項目に分類したものです。その項目は「性的被害」「夫や恋人などからの暴力」「就労」「恋愛・結婚・離婚」「性と生殖」「家事・子育て・家族の介護」「介助」「無理解」「教育」「制度・慣例」「女性として尊重されない」「医療の場で」「経済的な問題」「希望すること」「その他」です。これらの回答を読んでいると、職場や学校、家庭といった身近な場所で、女性でありかつ障害があるということが、どれほど生きにくさをもたらすものかがよくわかります。

また、制度・政策調査編は、都道府県の男女共同参画計画と、DV(ドメスティック・バイオレンス)防止計画に、「障害女性」についてどのような記述があり、どんな支援が行われているかの調査結果と、「DV被害者支援の現場から」「ある障害女性の裁判を通して」といった女性支援の現場からの報告からなっています。

このふたつのパートを合わせて読むと、これだけ制度の不備や社会の無理解・偏見があるなかで生き抜いてきた人たちの勇気と強さに、大臣だけではなく、ともすれば私たちが都合よく使ってしまいがちな「弱者」という言葉の意味を考え直さざるをえません。

 最後に、今回の調査で明らかになった「障害女性の困難」=複合差別と、それに対する政策の不在について、613日に院内集会が開かれるそうです。障害者運動のなかでも、女性運動のなかでも、気づかれずに放置されてきた部分の多い「女性固有の困難やニーズ」に耳をかたむけるよい機会だと思います。(集会参加者には、上記報告書が一冊配布されます)


院内集会:「障害のある女性の生活の困難・複合差別実態調査」報告会
6
13日(水)11301300(予定)
場所 衆議院第2議員会館第5会議室
連絡先: dpiwomen(a)gmail.com (a)をアットマークに変えて送信してください。

(ご案内)障害女性は、 障害があり女性であることから、この社会の中で複合的な生きにくさを抱えています。女性障害者ネットワークが2011年度に行なった、「障害のある女性の生活の困難 人生の中で出会う複合的な生きにくさとは(複合差別実態調査)」の報告会を行います。報告会では、この1年間に行ってきたアンケート、聞取りによる87人の障害女性の声をお伝えすると同時に、都道府県の男女共同参画計画 DV基本計画のなかにみる、障害女性に関わる施策の現状をお伝えします。 この調査結果から、私たちは障害女性の抱える問題に対応し実情を改善する施策の必要性を痛感しました。とくに、現在検討されている「障害者差別禁止法」に、障害女性のための条文を作って欲しいと考えています。  ぜひ多くの方にご参加いただき、ご一緒に、障害女性の現状を共有し、今後につなげていくための一歩を進められたらと思っています。ご参加いただいた方には、報告書を一冊お渡しします。