2012年6月25日月曜日

目的の正しさは手段の正しさではない――反原発運動と障害者差別について

以下の文章は、ある小さな情報誌のために、少し前に書いたものです。原発反対運動がときにはらむ「障害」や「病」への忌避感、それを無頓着に表明して反原発を主張することの問題については、この文章を書くずっと以前からふくふくの仲間たちや友人たちと語り合ってきました。
これは私個人の署名で書いていますが、多くの友人たちとの議論から生まれた共同作業の成果であることは申し上げておきたいと思います。その共同作業はいまも続いています。友人たち、読んでくださる方々、みなさんとの共同作業です。


************



目的の正しさは手段の正しさではない
小田原琳(大学非常勤講師)

 原発に反対するデモで、チェルノブイリの悲しげな子どもたちの写真をもった参加者を見かけたことはないだろうか。TwitterFacebook、ブログなどのSNSでも、写真がシェアされているのを見たことはないだろうか。これらの写真の子どもたちは、さまざまな障害をもっていて、悲しげにいたいけに、こちらを見ている。子どもではなく、足が何本も生えた子牛や、茎がねじれ、実がいくつも生った植物であることもある。これらの写真には、ほとんどの場合、なんの言葉も添えられていない。そうして、ウェブ上であればそれに、悲しい、かわいそうだ…福島の子どもたちが、というコメントをつける人たちがいる。私はこうした写真を見るたびに、それに寄せられる同情的なコメントを見るたびに、言いようのない怒りに駆られる。
 個人が発信するものだけではない。週刊誌AERAは昨年8月に、「ふつうの子供産めますか」と題する記事を掲載した。福島県の子どもが書いた手紙の一節からそのタイトルは取られていた。今年1月に横浜で「脱原発世界会議」が開催された直後、さまざまな分科会の様子が数多く動画サイトにアップされたが、そのなかには、福島から避難してきた子どもが「将来結婚はしない、ちゃんとした子どもが生めるかどうかわからないから」と発言し、それを聴いた周りの大人が「言いにくいことを言ってくれてありがとう」「そんなこと言わないで結婚してください。女の人を好きになるってすてきなことだよ」と涙を流しながら答えるという、おぞましいという以外に表現のしようのない光景を写したものがあった。いったいこの大人たちは、それで原発政策に対して何か批判したつもりになっているのだろうか。もしもそう考えているとすれば、同時に自分が何をメッセージとして子どもたちに刷り込んでいるか、わかっているのだろうか。障害をもった子どもが生まれることは、何の議論を経る必要もなくただそれだけで世間に訴える力をもつほど不幸なことで、奇形に生まれた生命を正しい目的のためならばさらし者にすることが許されるとでもいうのだろうか?
 さらに衝撃的なことは、このような問いがチェルノブイリ事故後に大きく広がった反原発運動に対してもすでに提起されていたということである。自身障害者である堤愛子氏はこのように書いていた。
「不幸な子を生むな」だって?生まれることが不幸なんじゃない。“不幸”は、世の中のしくみと人々の意識が創り出したのだ。(堤愛子「「あたり前」はあたり前か?」1989*

 私たちは25年のあいだ、世の中のしくみも人々の意識も変えることなくこの優生思想を放置して、障害をもって生まれた人たちを傷つけつづけ、今新たに、憂いに満ちた顔つきで、それを繰り返そうとしている。
 脱原発阻止を目論む人々は近頃、節電・停電によって病院や施設、高齢者宅などで健康を害する危険が生じる可能性があるといって世間を脅している。言うまでもなく、そのような問題は原発が稼動していた頃にも起こっていた。電気は弱者のためにつくられているのではない。ふりかえることもしてこなかった存在すら持ちだして再稼動を推進する姿は醜悪である。しかし、放射能の影響と想定される障害をもって生まれた生命に彼ら自身の存分な生を生きさせ、語らせることもせずに、ただ人間の罪悪の証明としてその姿をさらさせることも、その行為の愚かしさにおいて大差はない。どちらもただ弱者を口実にして、弱者が弱者たる社会的理由を解消する最大限の努力をしてこなかったことを棚上げにして、目的のためのたんなる道具として利用しているだけだ。
 私は心の底から原発政策に怒りを抱き、すでに多くの人が傷ついてしまったけれども可能なかぎり早く、災厄の原因をとりのぞきたいと願い、できることをしているつもりだ。だが己の正しさを証明するという欲望のために既存の構造のなかで抑圧されている存在を放置し、利用するのであれば、何ひとつ変えることはできないし、むしろ変えるべきものを生き延びさせることにしかならない。そのことに気づかない人を、私は同じ志を抱く者と考えることはできない。
*堤愛子氏による「ミュータントの危惧」他「反原発三部作」はすべてネット上で読むことができる。