2012年7月23日月曜日

ふくふく11・7月(第3回)報告:だれのための「よりよい」生命か

2012年7月11日の「ふくふく11」は『部落解放』2012年1月号の特集「よりよい『生命』とは何か」の3本の論考をテキストに、放射性物質の危険性を障がいと結びつけて語ることについて考えました。
チェルノブイリ事故後に撮影された障がい児や障がいのある動物、奇形の植物などの写真が、ただ放射能への恐怖をあおるために、Facebook上などで広められています。本当に放射能に因るものなのか検証されているわけではなく、“情報として共有する”という善意をまとっていたり、その行為が障がい者を反原発の道具にしていると自覚していたとしても、いまの状況下ではいたしかたなしとして断行されていたりします。これを障がい者差別と断じることは簡単ですが、いまに始まった差別意識ではないからこそ、福島原発事故後に大量に表出しているのでしょう。
野崎泰伸氏は「『障害者が生まれるから』原発はいけないのか」で、いまの社会が「障がいは悪い」という前提に立ち、本来なら障がいのない五体満足の子どもが生まれるべきなのに、原発がそれを阻んでいると考えていることに警戒心を抱いています。野崎氏は、原発の加害者が果たすべき責任は賠償という「法的責任」だけで完遂されるものではなく、原発のために害を被る人がいたとしてもしかたがないとか、自分たちの欲望のためには他者を思い通りにしてもいいとかいう横柄な「原初的責任」こそ追求されるべきだと考えています。
野崎氏も言及した障がいを悪とする環境を象徴するのが、出生前診断です。超音波検査の精度向上により、胎児が“異常”と診断された後に人工妊娠中絶に至ったケースは、1999年までの10年間に比べて、2009年までの10年間には倍増しました。松永真純氏は「出生前診断に向き合うために」で、健常者が自らの健常のあり方を問うことを求めます。さらに八木晃介氏は「どこまでが〈健康〉なのか」のなかで、異常と正常、病気・障がいと健常の境界は恣意的に決められるものであること、「健康増進法」(2003年施行)以降、日本社会では健康維持は義務となり、不健康は生活習慣だけに起因するもので、環境や労働条件は健康を害する要因から除外されてしまった、と説明します。
無自覚のうちに国や原因企業に対して責任を問いにくい状況が固められてしまっているなかで、また障がい児の出生や養育に関わることがはなはだ不平等に女性にばかり“負担”としてのしかかっている現状において、放射能の恐怖をいかに伝え、共有し、また現実に苦しんでいる人たちとどう向き合うことができるのか、次回以降もこれを課題の一つとして据えていきたいと思います。